当たり前とは…

以前、ある手話通訳士との話の中で「『聴者』と『ろう者』は対等である」と…。
この「対等」という定義について考えた時、また、活動同志の『ろう者』がその場にいない時の聴者が当然のように話せることに驚いたとの同時に『ろう者』は「見えない差別」を未だに被っていることに気付いていないのかと悲しくなったのだ。

サークルに入ったばかりの新参者に、このように言われたらまだ我慢も理解もできるのだが、ベテランである手話通訳士には言われたくないのだ。
まして、他者であるわたし『ろう者』に対し、傲慢な話し方や態度が響き「この手話通訳士に通訳は、頼みたくない」と拒絶感が出たが、親や先生のように手話通訳者も好きに選べないので、異常に悲しくなるのだ。

この手話通訳士だけではなく、社会福祉士や介護福祉士のように福祉に携わる関係者にも似たように、わかったような「当たり前」と思い違いしている人が最近増えているように感じるのだ。

『ろう者』も個々の考えをもった人間で一握りにしてはいけないはずだし、礼儀は大事だと考える。
これは『ろう者』だけの問題ではなく、知的障害者や視覚障害者等にも該当するだろう。
更に忘れていけないことは「高齢者」でもあるし「認知症患者」でもあろう。
「できないから可哀そう」「できるはずない」「わからないだろう」等の偏見をもちやすいが、能力も技術も個々それぞれに異なり、支援方法がうまくいけば一般就労も可能で、隠れていた能力を見いだせることもあるのだ。まして、伸ばすこともできるだろう。

『障害者差別解消法』の施行から数えて今年10年になるが、なかなか理解されないのは何故だろう?
また、支援方法を間違えると怖いところだが、大事なのは『決定権』は、当事者に最終的にあることを前提にした支援をしなければいけないはずだ。
特に福祉系の大学出身なら、ここで改めて原点に戻って支援方法を見直して欲しいところである。

今回の話し合いで感じた「当たり前」は、相手の「当たり前」ではないことを認識し、意識した行動をしなければいけないと思う。
常識についても、昔と今は変わってきていることを考えたら、その「当たり前」も違うはずだろう。
そして「相手をよく知る・聞く姿勢」は本当に大事だと思う。

相手を知って、新発見できたら更により良い支援の道標が見えてくるはずだろう。
「傾聴」はなかなか難しい技術だが、福祉だけではなく、どの仕事においても必要であろう。
当然、相手を知るだけではなく、たまに立ち止まって「自分を顧みる」ことも必要だろう。
だからこそ「日々精進」とか「毎日が勉強だ」とか言える人が増えれば、世の中も安泰だろうなぁ…。