能力の認知

「すごいね!」と褒められることがたまにあるが、複雑な気持ちになる。

聴こえないことで、咄嗟に機敏に感じるものだが、代用的に別の機能が備わってあたりまえになっていることもある。それが、視覚(視野)だったり、肌だったりする。

視覚障害者も同じように、聴覚や肌が優れていたりする。
発達障害者も、内部障害者も少なからずにもっている。

五体満足で生を受けた人の五感は、どちらかというと全てにおいてバランスよく保っていることが多い。
障害者は努力も必要だが、機能補助もしくは代用で優位性が上がってくる。
それだけのことで、未だに驚かれることは「危険予知能力」だ。

聴こえなくても運転ができることは「補聴器」という機器で認められて、ひと昔に比べれば理解も広がった。

しかし、事故の原因に、聴こえない人のせいにしているケースがある。
事故検分では、どうしても『ろう者』はコミュニケーション障害とあって、弱い立場に立たされてしまう。

まず、警察にすぐに電話ができないことで窮地に陥る。
警察を呼べても事故検分では話が通じないからなのか、警察官まで面倒くさがられて、ろう者は後回しにされる。

窓を閉め切った車のなかでボリュームをあげれば、外の音が聞こえなくなることを棚に上げて、相手からはクラクションが聴こえていないことなどを理由にして、加害者なのに被害者側に勝手に変わっていることも…。

最近では、 携帯電話やスマホで110番・119番メールができるようになり、ドラレコ取付の義務化が進んで改善されつつあるが『ろう者』の人権に関しては、まだまだ微妙な感じがしている。

実際に交通事故データを調べると『ろう者』の人口が少ないこともあるが、 大方が聴者(聴こえる人)で注意散漫が多く、脇見や考え事だったりする。
ニュースでよく目にする、高齢者のアクセルとブレーキの踏み違い事故やあおり運転の貰い事故だったりする。

反面『ろう者』が起こす事故のほとんどが、たぶん自損事故だろう。
聴こえないことで、視野(後面角度が広い)の発達だけではなく、経験で培った「危険予知」認知と、運動で鍛えた「危険回避」認知。
この2つの能力認知バランスが崩れると、自損事故につながってるだろう。
この能力認知をもたない聴者にしてみれば「すごい」と感じるのだろう。

簡単に言い換えるとしたら、いい筋肉を鍛えるか、鍛えないか、の違いだけと考える。

人間は最初からすごい能力をもっているのではなく『五感』は生き物すべてに平等に与えられていると感じるのはわたしだけ?
ちょっとの努力をするかしないかで、差もでてくるはずなのに…。

そして、一握りにして『ろう者』を1つの能力で見ないでくださいね。
運動音痴もいれば、いろいろで 『ろう者』も皆さんと同じ人間でひとり一人の個性があって、得意・不得意があるから…。