聾学校を通して…教育とは?
校名の変更が2007年4月にあって『聾学校』だけではなく、盲学校や養護学校も含めて「特別支援学校」となったことをご存知ですか?
「特別支援学校」とする理由が
①各学校間の機能的差異に基づく区分を名目上撤廃
②障害の種類によらず一人一人の特別な教育的ニーズに応えていく とある。
あれから早15年経過したが、どこもいい噂は聞こえて来ないし、ろう者が通う『聾学校』では扱いが悪くなったと聞く。
つまり、結果的に名ばかりの教育法改正としか思えないし、区分でいう『聾学校』という名称のどこが悪いのかと思う。
『聾学校』について講義しても、身近にろう者がいなければ、聴者は必ず頭の上にクエスチョンマークが付くし、ある県では1つしかないことすら知らないのも普通である。
特別支援学校と名称を変えて理解してもらおうと思うほうがもっと大変であるはずなのに、なかなか理解が進まないのはどうしてなのか?
手話が禁止されて約80年という長い暗黒から抜けたとは言え、逆に膿を生み出すようにいろいろな問題や課題が出てくることは、十分な調査をしてこなかった国の官僚に腹立たしく思う。
ここでは、ろう者のわたしが考える『聾学校』について…
ろう児もひとりの人間として、一人ひとりのニーズに沿う聾教育をすべきだろう。
ことばの獲得に必要なことは、障害となった聴覚を補うのではなく残った視覚・嗅覚・味覚・触覚を磨き伸ばすこと、そのためにはまず目力で経験を積み重ねることではなかろうかと思う。
聞くことができなくても、書く、読む力をつける教育はできるはずだが、その手段をわかっていないから、僅かな聴力を酷使して聞き取りや発音訓練をさせるしかないと考えているのだろう。
そこからまた、聞き取りや発音訓練で成功した者と失敗した者と分けた教育もどうかと思う。
成功した者は失敗した者を卑下するようなことが、同じ障害者同士にもかかわらず実際に存在するし、聴こえの力・発音の力だけで差別された者には生涯トラウマとなって立ち上がれない者もいたりする。そのトラウマは本人だけでなく周囲にも、その子ども達にまでも波及することもある。
ここまでくると、もはや昭和の「口話教育」と大して変わらない。
ひと昔前にあった「バリンガル教育」の「ろう者はろう者らしくひとりの人間としていきる」教育方針はどこへ行ったのか?と目を疑うことも…
未だに、人工内耳で声や音の聞き分けや発音の訓練をさせている聾学校もあるとか…。
欠けた障害に重点をおいても、将来的に老化などで聞き取りにくくなるであろうし、この時に困るのは当事者だということを親も先生もわかっていないのかと悲しく思う。
本来の教育者なら「人間らしさ」を養うことであるはずだろう。
しかし、その親も多分、病院で人工内耳を勧められたからと言えば、極端に医者が悪くなる。
医者も患者さんの人生より自分の儲けを考えているとしたら、やってのける手段でもあるだろうし、成人ろう者の日常生活を知っている医者はどのくらいいるであろうか。きっと多くの医者は、ろう者や手話に対する正しい認識を持っているとは思えない。
また、ろう者の言語である「手話」がみっともないと思うのであれば、ろう者への侮辱であり、心が貧しいのだなとわたしは思いたい。
あれこれと切り詰めたらキリはないのだがどの道、障害の有無に関係なく子どもの教育を考える時に「人間らしさとは何か」を一度、立ち止まって真剣に考えて欲しいと思うのはおかしいだろうか?