国語の力
いろいろな人と話していると、年々と若者たちの国語の力に違和感を覚えてしまう。
流行りの若者言葉を略語でいわれると全く理解できなくなるが、昭和の教育から考えたら怒られるし「とんでもない」と思う。
書き言葉も話し言葉とは違うニュアンスがあると言われて、ひと昔ではろう者が馬鹿にされていたが、今では逆に褒められるようになっているのだから考えられないのだ。
それは、ろう者が「耳から言葉が入らない」ために、助詞や副詞などの使い方が苦手で正しい文章にならないのが当たり前だったのだ。
手話での助詞や副詞は顎や眉、口などの動きで文語にするが、文章化にするとどうしてもおかしくなってしまうし、教師との縁にも大きく左右されていると感じている。
聴者同等の力をつけるためには2・3倍の努力をしなければいけないと「耳にタコになる」くらいに親や学校でうるさく言われたものだ。
この諺の「耳」が、ろう者には「目」にタコになるくらいに言われていたものだ。
そして、犬や猫のように喋らないようでは困ると鞭を打って育てた親もいたことから考えると想定できないことが今、起きているのだ。
小さい頃から本を読むことが好きだったわたしは、国語辞典を持ち歩くことが当たり前で意味の分からない語彙にはマーキングしていたものだ。
今では、スマホでアプリをダウンロードすれば何冊ものの重い辞典を持ち歩くこともないはずなのだが、最近の若者は読書が苦手で「質問力」も弱いように感じるのだ。
聾学校だけではなく普通校も経験したわたしは「質問力」も自然と身に付いたのかも知れない。
何気ない語彙に引っかかると「どういう意味?」と聞いていた記憶がかすかにあることに気付き、文章力の磨き方にもコツがあったのかなぁと思う。
ある意味で負けん気の強さが「アイデンティティ」をもって自分の言葉を発することができたのだろうし、周囲に叩かれて強くなったタイプだと自負している。
また、性格も波乱万丈な環境でいろいろな力を磨いていったものだろうと思う。
手話も言語として認められた今、聾学校でも手話を使って指導しているはずなのだが国語力が弱いと聞く。
逆にいえば、平和な環境では何の刺激もないので、性格も穏やかでのんびりした感じなのだろう。
そして、仕事で流行りの言葉を略語で話すことが通るとは思えないし、重要な書類作成には許されないだろう。
将来の日本を考えたとき、日本人としての誇りが消えていくのではと悲しくなる。
文字の歴史から考えたとき、漢字からカタカナとひらがなにローマ字や英語などの外国語を多様に使えるのは日本人だけだと思う。
ここで、ドラマを1つ紹介したい。
『根の深い木』で、歴史に封印されたハングル創設を巡るミステリー時代劇だ。
日本でいう「えた・ひにん」という最下層民(朝鮮では奴婢をはじめ平民たち)が自分で書ける、読めるようにと大韓帝国で表音記号の28文字(現在は24文字)を組み合わせた「ハングル」を公布・流布させるまでの世宗大王の治世を描くストーリーだが、ろう者が経験するような発話訓練のシーンが少し出てくるのだ。
そして、ハングルを手話に置き換えて見ていくと、ろう者の苦労を感じて貰えるのかなぁと…
手話も一時的に排除された歴史があるだけに、たった28文字のハングルの創設に否定した官僚たちと、手話を否定し口話を推進した学識者たちが被って見られるのでお勧めである。
「言葉」というのは、いろいろな解釈があるようだが…
「葉のように張り巡らされた魂(感情)が口を借りて発すること」かなぁとわたしは思う。
だからこそ、軽い言葉や略語で話して生きることは、ちょっと人間としては無責任だと思う。
刀や剣のように血を流すようなことはないが、言葉は時に刀や剣以上に切れてしまう怖さがある。
だからこそ気を付ける必要があるし、言葉に誇りや責任をもって人間らしく生きることで、相手に与える印象も変わってくるように思うのだが、どうでしょう???