外国語と手話
『手話』を教えていると「英語」と同じ綴り方に似ていることがある。
ただ『手話』は世界共通語ではないし、国内でも地域によって少し表現方法が違う。
新幹線ができるまでは東京から大阪まで5時間以上はかかっていたが、今は約3時間もあれば行ける。
飛行機だと1時間弱くらいかな?それだけ、交通網の技術が進化しているのだ。
FAXもなければ電話も普及していないような時代で手紙のやりとりが精一杯の時には、ろう者もそう簡単に全国にいるろう者と会えていたわけではないのだ。
だから、地域それぞれのろう者集団で手話があって、文化もできて当たり前である。
例えば「水」でも、水道の蛇口だったり、水車だったり、水道から流れる水を飲むしぐさだったりする。
その地域のろう者集団で定着した『視覚言語』だから、間違いではないのだ。
2020年は新型コロナウイルスで中止になったが、約70年続いている全国規模のろう者の大会があり、老人部、女性部、青年部、体育部などなどがある。
そのような、あらゆる大会で共通語の手話として出来上がって、書籍が出版されるのだ。
このような背景と歴史のなかで育んできた地域の手話と知らずに否定されることも少ながらずにある。
書籍で学習した聴者が「本と違うので間違いだ」と手話講座で否定されることも珍しくないのだ。
そのため、音声言語である日本語に「方言」があるように、手話の「方言」と説明するろう者もいる。
確かに簡単に言い換えればそうかもしれないが「方言」ではないとわたしは断言する。
手話は『視覚言語』だから、その地域の生活文化からできた言葉と言ってもいいのだ。
「言語」というのは、なかなか難しいものだが『文化』がついてくると考えている。
「方言」や「なまり」は、その地域の環境がそのように変えた言葉であって『文化』はついて来ない。
例えば、寒い雪国で共通語を話せば、のどや鼻がやられてしまうために環境適応したのだろうと思う。
この違いが分かればいいのだが、なかなか難しい。
その上で、ろう者の文化を尊重してもらえないために、間違った理解をされたりする。
同じ日本人であっても、異なる言語を使い文化をもつ民族(マイノリティ)であることを…
そして「外国人」と同じかといえば、それも違うのだ。
外国語も同様に、その地域の言語であるが、文化が違う。
例えば、一言に中国語と言っても異なる話し方があったり、英語もアメリカやイギリスでは異なる。
英語が世界共通語とはいえ、その地域の文化と感覚が違えばニュアンスも違う。
「言語」や「文化」の理解もなしに『手話』を覚えたいというのは、ムチャというものである。
だから、わたしたちの手話講座では手話を始める前に、このような知識を必ず教えるようにしている。
相手と話すためには、ろう者でなくとも「その人」を取り巻く環境と理解は大事であるだろう。
『手話』も世界共通語ではないが、面白いことを1つ…
聴者の多くが、海外旅行で苦労することのひとつに『会話』があると聞く。
しかし、県や国の役員を経験したろう者なら、外国のろう者とは1日もあれば手話は通じてしまう。
酒が入ると、数時間で意気投合してしまう。
これは『視覚言語』ならでの強みだろうと思う。