手話できる基準って?!

ろう者にとって、聴者が手話できることはいい事なんだけど…

話す内容や場所によっては迷惑だと感じることがある。
例えば井戸端会議のような雑談であればどんな手話でも大歓迎だが、大事な内容や命に関わるような時は流暢に使えなければやめてほしいと思うことがある。

下手に手話を使うとろう者は戸惑って、聴者のペースにハマるとやばいことになる。
例えば、初対面の看護師に「手話ができる」と言われても、理解できる手話とはかけ離れていて、幼稚な片言を話しているようなものだ。

手話を英語などの外国語に置き換えて考えてみたら、手話もまた難しい言語であろうことに「(少し)手話ができる」と簡単に言うことに理解に苦しむのだ。

日本では、英語を幼稚園児から習い始められるようだが、小学3年くらいから義務で時間割に週1回以上、高校や大学までの10数年と習える環境がありながら、英語ができる・得意と公言できる人の割合は…。街の中で外国人との通りすがりに道を尋ねられても知らんぷりで逃げていく人を多く見かけることには、恐らく苦手意識を持っている筈だ。10数年の英語を習っても身に付けられないのに、たった6ヶ月か1年くらいの手話講座ごときに「手話ができる」と、やってもらうと全然なってないと…。
この差だけでも手話を軽く見られているのかなぁと悲しくなる。

手話講座では大概「中間的手話」で指導しているために、日本語が苦手なろう者の頭では中間的手話と日本手話の切替スイッチになっていくため、理解が追いつかなかったり、誤解を生んだりする。

わたし達は『頑固』が幸いにしているために流されることが少ないが、手話が分からなければ、キッパリと「分からないから筆談で」と断っている。また、資格を持った手話通訳士でもピンからギリで、希望しても難しい等々の不条理もあり、手話通訳派遣の依頼も思うように使えないために筆談でのやり取りが多くなってしまっている。

話す相手となるろう者の理解度合いがそれぞれであるだけに、手話ができる基準は一人それぞれの感情ではあるが、安易に言うことではないと考える。短辺的に手話を使うのは結構ではあるが、重要なことはメモにしてあげる心遣いができたら、それだけでも救われると思う。