価値観

SNSなどで炎上する理由を考えてみたい。

まず『価値観』を調べてみると…
ウイキペディアでは「何に価値があると認めるかに関する考え方」
デジタル大辞泉では「物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断
と書かれている。

この『価値観』について明瞭な「定義」がないことに気付いているのだろうか?
つまり、一人ひとりの考えが異なるからこそ判断も違い『価値観』もまちまちであるのだ。

人生において、一人ひとりが受けてきた教育も人間関係などの環境も違えば、双子などの兄弟・姉妹でも結婚すれば価値観は変わっていくであろうことに、100%の同じ価値観を持つ人はどこを探してもいないだろう。

それを、ちょっとした考え方の違いで叩く必要があるのだろうか?
同調する輩たちも「自分」をわかっていないから乗っかかるのだろう。
発信する人の『価値観』との違いを認めつつ、自分を見つめるというきっかけがSNSではと思うのは、わたしだけなのか。

例え、嘘八百で並べたものでも気にしないようにするのは、わたしだけだろうか?
後々につけが廻ってきて自分の首を絞めることもあることを知っているからこそではあるが…
発信した人の立場を自分に置き換えて考えることも大事なのではないかと考える。
そして、第三者的にみて、両方に非があってもトラブルにならないのなら必要以上に気にする必要はないのではと考えるのも問題なのか?

自分を取り巻く環境や法律などで縛られているからこそ、
一人ひとりを守るべく「人権の尊重」や「表現の自由(言論の自由)」という権利があるのではないかと考える。

また、詐欺などの悪は警察などが調べて縛り上げているのだから、それでいいのではと思う。
マリノリティという少数派を守ることも大事だが、一括にして悪く見られてきた過去があるだけに、
程度をわきまえて発言したらいいのではと思う。
そして、他人を巻き込んで、自分を上げる手段も汚く思える。

「手話」を「ろう者」のものだからと同調してもらいたいのではないのだ。
「手話」は「ろう者」が守ってきた「ことば」であり「人間」として見てもらいたいという考えが、今の時代では必要であり、ひと昔とは変わったことだと考えることのほうが適切ではないかと思えるのだ。