データ情報とは⁈

あらゆる情報のなかで『信用できるデータ』とは何かを考えてみたい。

近年でいえば「コロナ」の感染者と死亡者、病床使用率やワクチン接種率がよくみられるものだろう。
コロナが流行した年は感染者数だけだったのが、死亡者の増加により死亡者数も加わってきた。
そして、病床使用率と…。
ワクチン接種が始まると、ワクチン接種率と追加されるものの知りたい情報とは掛け離れているのだ。

しかし、このデータがどのように見えているのかということが大事なのである。
詳しくは年代や男女別だったりするが、肝心なデータが見えていないことなのだ。

例えば、ワクチンにしても全員に同じメーカーのものではないのに一括にしていることや、1・2回目のワクチンが全員同じでも3・4回目のワクチンは別のものになっていたとしたら、データのとり方も変えるべきであろう。細かにして情報公開すべきことをできていないことである。
死亡率にしても、ワクチン接種の有無や回数によっても異なるはずだろう。

政府発表の統計だけでは、知り得られない情報も一般公開していない情報もたくさんある。
また、個人情報保護法やジェンダー問題が絡んだりすると、正確なデータも疎かになってしまう。
そのような社会のなかで、明瞭な調査でも根拠がないようでは信憑性も欠けていくのではないかと…。

2021年9月に発足した「デジタル庁」には設置の意義があったのだろうかと考えてしまう。
本当に税金の無駄使いの1つであろう。
そのうえ、国会議員もタレント化して、全てにおいて形骸化し何もかも暗闇に導かれそうで怖く感じるのは、わたしだけだろうか?

どのような議論にしても『正確なデータ』がなければ検証できないし、自力での社会調査も簡単にできるものでも一朝一夕に身につくものではない。国会中継で下手な発言をしても「議論できてますよ」と形式的に丸こまれ、野次馬だったり呆れた内容でさえ、国会は正常に機能していると錯覚させられているのであろう。

それは国だけではなく、市町村においても同じであろう。
2000年に施行した「社会福祉基礎構造改革」で「トップダウン」から「ボトムアップ」の政策に変えたにも関わらず、地域の財政力で、地方は特に苦しくなっているのも事実である。
それを国や県では一括にして社会調査の結果にしているのも事実であろう。
役所や社会福祉協議会、福祉施設でも調査結果を安易に見ているケースが少ながらずにあること。

職域によっては他人より自分の身体を大事にしてしまうと、多忙にかまけて解決方法も蔑ろにしたり、放棄せざるを得ないようなこともあろうかと考えると仕方がないと収まってしまう。
そのような悪循環が、雇用問題や福祉サービス等に影響し、社会全体をダメにしていると考れば、国民一人ひとりの意識改善が必須であろうと考える。

しかし、意識改善にしても、年を取れば取るほど思考力や体力は落ちていく。
それこそ若者たちが頑張ってほしいものだが、その若者たちも体力がひと昔に比べたら些か頼りない感じが漂っているし、教育の内容も昔に比べたら易しくなっていると聞くと、対策を練ろうにも思考停止してしまう。

先進国と言われる日本でありながら、なにもかも衰退していくのを見ているだけでいいのだろうか?
いや、このわたしでも踏ん張りたいと思うのだけど、一人ではどうしようもないのだ。
これまでに集めてきた過去の「データ」も活かされずに朽ち果てていくことの悲しみを考える人はどれだけいるのだろうか?

ましてや、「日本語」が消えてもおかしくないと言われているなかで、ろう者が「日本手話」を守ろうとすることは間違いではないが、今世の社会状況も考え、手話指導者であろうかなかろうと、聴者も巻き込んでどのようにしたら残せるのか、守れるのかを考えるのが先であろう。
だからこそ、SNSなどでも前述のような[なんちゃって議論]ではなく[正確なデータに基づいた適切な議論]ができてくるようになれば、日本も安泰なのにと思うのは、わたしだけだろうか?